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明治の大惨事「小田原大海嘯」から津波被害を推察する

※写真は、土木図書館ホームページ「土木貴重写真コレクション」から転用いたしました。

 

前回のブログで「小田原の近代災害の歴史は、関東大震災だけではない」とお伝えしました。

読者の多くが、「関東大震災以上の地震や津波が襲ったんだろう」とお思いでしょう。

タイトルに書いておりますが、明治35年9月に「小田原大海嘯」という未曾有の大災害が起こっています。

「おだわら だいかいしょう」と読みます。

「海嘯」は高潮による高波被害を指します。

上記の写真は被災後の小田原町旧小新宿(現浜町だと推察されます)です。

津波と混合されることもありますが、別のものです。

 

では、小田原大海嘯の様子を箇条書きに記載します。

●同年9月4日午後から大波が小田原市を襲い始める。翌5日には建物半壊10戸、全壊4戸、床下床上浸水100戸、負傷者数名を出す。

●その後、9月の月末まで、大波が断続に襲う。

●最大の被害が出たのが9月28日。前日までの足尾台風が通過。午前10時ぐらいまで風雨が強かった。午前11時ごろ雨は収まったが、そのときに満潮を迎える。昼前後から、大波は堤防を越えて市内に(高さは数尺との記載)。

●大波は約2時間も続く。小田原だけで死者11名、負傷者184人、建物全壊144戸、半壊69戸、消失建物293戸、床上浸水300戸、床下浸水700戸。

●周辺も入れると死者は67名にも及ぶ。

※出典/「復刻版・小田原近代百年史」(中野敬次郎著・㈱八小堂書店)

 

近代史の中でも高波災害で、ここまで激甚な被害が出たことは稀です。

なぜここまで多くの被害が出てしまったのでしょうか?

私自身は素人だが、その一つは「堤防などの不備」であると思います。

当時の海岸線には、江戸時代の後北条が構築した城壁などが、堤防として利用していた場所が存在していたのことです。

同世代は、度重ねて高波被害に見舞われていた(明治13年の大風浪や明治32年の大浪)。

それでも大規模な護岸工事は行われていなかったのが被害を大きくした考えざるを得ません。

また、前記の「小田原近代百年史」において、中野氏は「明治以降の海側への開発、人口流出も要因」という見解を示している。

元々塩田や海岸線だったエリア(現在の南町・浜町の一部)に、町が形成されていることも、江戸時代とのデータの比較で論理に示している。

 

この大災害を受けて、当時の小田原では多額の予算をつぎ込み(年間予算の4分の1)、護岸整備を行うことになります。

その流れが、堤防と交通アクセスを両立する「西湘バイパス」の建設に繋がっていると思われます。

しかしながら小田原では今年、台風の高波で、道の駅建設予定地や、根府川の海岸線の道路で被害が出てしまっています。

津波対策と言うよりは、「海眺望の良い」場所ばかり被害にあっています。

海が見えるということは、堤防のような視界を遮るようなものがないということです。

観光客を取るか、災害対策を採るか、難しい選択かもしれません。

 

加筆すれば、「小田原大海嘯」のイメージがあるので、「小田原は関東大震災の時に、津波の被害がひどかった」と、誤って伝聞されているのです。

度重ねてで、恐縮だが、関東大震災では幸いにも津波の被害は軽微だったのです。

もちろん、江戸時代以前の大地震では津波の被害の記録も残されている。

しかし護岸工事もされていない400年前の被害記録が、すべて受け入れられるかは疑問である。

平成30年9月末に襲った台風24号の記憶も残る今、高波のことも一考すべきです。

 

 

□小田原は明治以降、津波の大被害はないが、高波の大被害はある。



関東大震災の記述から、小田原の震災被害を鑑みる


小田原のマンションニーズと現実の差異を斜め見する。